ぐうたら生活で超絶人見知りなマスダ、人見知り克服のための荒療治とは。

マスダは北海道の東側、釧路という所で生まれ育ちました。
小学4年生くらいのときに、釧路の中でもけっこうな田舎の方に引越しをしたので家の近くで普通にキタキツネとか歩いてる大自然いっぱいの環境の中、23歳までその地で暮らします。

▼大自然いっぱい。釧路湿原が近くにあります。

あ、途中2年くらい札幌で暮らしますが、また釧路に戻り東京へ旅立ったのは23歳の時。

東京へ旅立つにはきっかけがあったのですが、そこまでのことを書いてみようかと思います。

けっこうな家庭環境とぐうたら人見知りの日々。

マスダの母親は離婚経験が2回ほど、世に言うバツ2ってやつで
兄と弟がいますが兄とマスダが一人目の父親の子、弟が2人目の父親の子供です。

が、ずっと本当の父親のことは知らされていなかったので、2人目の父親を本当の父親として育てられました。
でもやっぱり、というかこの2人目の父親がけっこうな問題児で、正直ぜんぜん合いませんでした。

今となってはこの家庭に生まれ育っていなければ今のマスダはいないわけだし、離婚する家庭なんてたくさんあるわけなのでなんとも思いませんが、当時の幼いマスダにとってはとても生きにくい環境で家族愛みたいなものはまったく感じられず、つらい幼少期だったなぁと思います。

そういう環境もあったからなのかなぁ。
自分自身を外に表現するっていうことがとても苦手で、かなりな人見知りっ子に育ちます。

ただ、小さい頃から絵を描いたり何かを作ることは大好きだったので心の中では

「絵を描いて生きていきたい。」

とずっとずっと思っていました。

ずっとずっと思っていたんですが、基本ぐうたらですし行動に移すということも出来ず、なぜか小さい頃は「絵で食べていきたい。」なんて言ったらみんなに笑われると思っていたので、その夢を誰かに言うことはありませんでした。

初めて行動するぐうたら人見知り。

誰かに言うことはないものの、ずっと絵で食べていきたいという気持ちは心に強くあったこと、それからあまり上手くいっていない家庭環境からもう逃れたいという気持ちも強くあり、札幌のデザインの専門学校へ行くことを決めました。。!

マスダ、はじめてのおつかい、ならぬ初めての夢への行動。

この環境から逃れられるという喜びと、デザインの学校へ行ける喜びとでもう楽しみしかなかったです。
人見知りだったので、友達が出来るかなどの心配はちょっとありましたが、偶然にも同じ高校の友達が一緒の専門学校に行くことになり、クラスも一緒だったのでとても心強い存在となり自然となじんでいくことも出来ました。

。。っていうか、同じことが好きな人たちが集まっているので、とにかくモーレツに楽しかった思い出しかありません。
楽しすぎて勉強もそこそこに、学校にも行かず遊びすぎて進級出来なくなりそうな危機もありました。

そしてモーレツに楽しかったんですが、デザインの専門学校に行って気付いたこと。

それはマスダ、デザインがしたいんじゃないってこと。←気付くの遅い。

デザインの専門学校に行ったら、きっと絵で食べていけるだろうとな〜んも考えないマスダは思っていたのですが、結局就職するのはデザイン事務所などしかないのです。

でもデザイン事務所に入ることだけは嫌でした。
基本的に多くの人が同じ空間で机に向かって何かをやっているという空間が、なぜかとてつもなく苦手でそんなところでやっていく自信も微塵もありませんでしたし、興味もありませんでした。

そしてマスダは途方にくれます。

途方にくれて、ぐうたらっぷりを発揮するマスダ。

ワシャ、どうやって絵で食べていけばええんかの。。

どうやっていけばええんかの。。

そう思いつつも大体感覚で生きてきたマスダは考えるのが苦手なようで(っていうかただのアホ)、どうしていいかわからないけれど、生きていかなければ行けないので、専門学校卒業後はフリーターとして活動(?)し始めることとなりました。

まずはカフェで働きます。
なんか人間関係がやだなーと思って数ヶ月後に辞めます。

次はテレアポのバイトをします。
人見知りのマスダなんだから、流暢にしゃべれるわけもなく1週間で辞めます。

え、なんかお金ないし、札幌で一人暮らしとか無理じゃね?ってなって地元釧路へ舞い戻ります。

釧路へ舞い戻ってからも、ぐうたらっぷりは続きすぐには働かず親のお金で車の免許を取りに行ったり、何にもしない時期もありました。

そう無職。それはどこでも働かず、ただ家でゴロゴロ過ごすこと。

そんな時期もあり、その後も数々のバイトを転々とし続けました。
マスダ、仕事を長く続けられないという病にかかっていたのです。←病ではない。

ぐうたらマスダ、憧れの仕事に就く。

仕事を長く続けられなかったマスダは、焼き肉屋さん、観光地のカフェ店員、パチンコ屋さんなどなどやってみましたが、1年続いた仕事はひとつもありませんでした。

ただ、マスダ、ひとつだけやってみたいお仕事がありました。

それはアパレル販売員。

絵を描いていきたいと思いつつも、どうやればいいのかわかりませんし洋服も好きだったマスダはアパレル販売員とかやれたらステキだなぁ。。と思っていたりもしたのです。

そして、超絶人見知りだったマスダは

「販売員とかやれば、人見知りもどうにかなるんじゃね?」

と思ってもいました。こちらから話かけなければやっていけない仕事に就けば修行になるじゃろう。。と荒療治に出てみたわけです。

そんなわけでアパレル販売員になるべく、新オープンするショップの面接へと向かうのです。
2つのショップの面接を受け、その頃はイモみたいにダサかったマスダを奇跡的にひとつのショップが採用してくださいました。

イモっ子マスダ大喜び。

憧れだったアパレル販売員という仕事に就き、そこからマスダの長い販売員生活が始まりました。。!

。。と言っても釧路で販売員をやっていたのは1年間だけ。

釧路での1年間の販売員生活を終わらせ、東京へ行くことを決意したわけなんですけども、それにはこんな出来事があったのです。

マスダ トモミ
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*マスダのもっと詳しいプロフィールはこちら。
ぐうたらマスダのヒストリー【2】

ぐうたらマスダ、東京行きを決意!画家活動を開始するために行ったのに。。

2018年3月13日

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ABOUTこの記事をかいた人

刺繍入り画家 / フィンガーペイントアートクラス認定インストラクター

元アパレル販売員が34歳から画家活動開始。 描く縫う編むことで絵やぬいぐるみ制作しています。 もっと身近にアートを楽しむ、をテーマに活動中。 子供の絵・アウトサイダーアートが好き。▶︎▶︎詳しいプロフィールはこちら